<2020年4月26日の説教から>
ルカによる福音書6章6節~11節
『人の命を生かすこと』
牧師 三輪地塩
「安息日」は、創世記1~2章に記されている天地創造の出来事に由来する。「神の祝福を受けるために仕事の手を休めなければならない」だから安息日が設けられたのである。ヘブライ語で安息日のを「シャッバトゥ」と言う。ギリシャ語では「サッバス」。英語でも同じく「サバス」Sabbath。安息日(サバス)の原意は「休む」とか「休暇を取る」ではない。ここは間違われやすいのだが、「バッサリと切る」とか「断絶する」「断つ」というのが原意である。六日間働いてきた労働を、七日目にはスッパリと「断つ」「仕事を切る」という意味である。それ故に安息日は休むべき日として定められてきた。
しかしもう一つの「安息日の意味」は、「回復」「復元」という性質も持っている。ユダヤ地方では、ある年を基準にして7年目のことを「安息の年」と言う。その7年の7倍、49年目には「ヨベルの年」があり、ユダヤ地方では1年間畑を休ませるというルールがある。申命記に詳しく出て来るが、農耕も、牧畜も、土地の売買さえも行なわない。そうすることで、神が創造された大地の肥沃な力を取り戻す「回復させる」というのである。また、ヨベルの年には、それまで借金をしていた人たちの借金が全て帳消しになるという特例もあった。つまり人が人生を取り戻し、回復させるための特別措置である。これが安息年の7倍にあたる50年に一度行なわれていた。
つまり安息日は、極めて愛に満ちた、豊かさの回復、人間性と人間的生活の回復が意図されている。このことについてイエスは次のように言う。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行なうことか。命を救うことか、滅ぼすことか」。この見える証しとして、右手の萎えた男性を癒したのであった。
だがこの時イエスが回復させたのは、単に「萎えた右手」の機能回復ではなく、右手の萎えた男性の心の中にあった「右手が使えないダメな人間」という後ろ向きな思いや、「社会の役に立たない生きる資格のない人間」などという消極的的な思いと自己否定ではなかったか。そうであるならば、イエスがここで回復させたのは、彼を支える自尊心や、神の被造物であるという誇りでもあった。つまり人間の尊厳の「回復」が安息日に行なわれたのである。イエスが批難される謂われはない。
2021.9.26 の週報掲載の説教
2021.9.26 の週報掲載の説教
<2020年4月19日の説教から>
ルカによる福音書6章1節~5節
「安息日の主」
牧師 三輪地塩
ルールや規則には、大きく分けて二つの性質がある。それを仮に「消極的規則」と「積極的規則」と呼ぶことにする。消極的規則は、例えば「赤信号は横断歩道を渡ってはならない」というように、「~~してはならない」という「否定句」で表わされるもの。逆に、積極的規則は「手を洗いましょう」「消毒をしましょう」というような「何々をしよう」という、行動を促す規則のことである。そこから考えると、当該聖書箇所で言われている「安息日規定」は「消極的規則」と言って良いだろう。もっと正確に言うと「ファリサイ派の言う安息日規定は消極的規則である」ということだ。「安息日には働いてはならない」「仕事をしてはならない」ここには積極性はない。
だが、本来の安息日規定は「休んで神を礼拝せよ」という大前提があるからこそ、安息日規定が意味を持つはずである。「手を止める(仕事を止めて休息を取る」ことと「神を礼拝する」ことは一体化していた。だがこの「神の礼拝」」という大前提を見失うならば、単なる教条主義、形式主義に陥ってしまう。
今日の場面で、弟子たちは空腹だった。空腹は命の危機である。神の被造物としての人間の命が脅かされていること。それが当該箇所で問題にされている。それでも律法は「安息日に何もしてはならない」と言っているのかどうか、その究極の律法解釈が迫られているのだ。
「善きサマリア人の譬え」で、主イエスが示したのは、「隣人愛」であった。「神への愛」「隣人への愛」この二つは不可分なものである。つまり、ファリサイ派の安息日理解は「教条主義・形式主義的」な律法解釈であったのに対し、イエスの安息日理解は「神への愛、隣人への愛」であった。
感染症禍にある我々は、利己的な生き方であってはならない。自分の事ばかりを優先する生き方から、他者を愛し、他者と共に自己を生かす生き方、すなわち「利他的生き方」になる必要がある。SDGsが叫ばれて久しい昨今であるが、なかなか人は自分の利を捨てることが出来ない。だが、自己の利だけを優先して生きる人や、そのような共同体は滅びるのみであろう。今我々に問われているのは、全ての形状主義を離れて、「神への愛と隣人への愛」を優先する積極的志向にある。
<2020年4月19日の説教から>
ルカによる福音書6章1節~5節
「安息日の主」
牧師 三輪地塩
ルールや規則には、大きく分けて二つの性質がある。それを仮に「消極的規則」と「積極的規則」と呼ぶことにする。消極的規則は、例えば「赤信号は横断歩道を渡ってはならない」というように、「~~してはならない」という「否定句」で表わされるもの。逆に、積極的規則は「手を洗いましょう」「消毒をしましょう」というような「何々をしよう」という、行動を促す規則のことである。そこから考えると、当該聖書箇所で言われている「安息日規定」は「消極的規則」と言って良いだろう。もっと正確に言うと「ファリサイ派の言う安息日規定は消極的規則である」ということだ。「安息日には働いてはならない」「仕事をしてはならない」ここには積極性はない。
だが、本来の安息日規定は「休んで神を礼拝せよ」という大前提があるからこそ、安息日規定が意味を持つはずである。「手を止める(仕事を止めて休息を取る」ことと「神を礼拝する」ことは一体化していた。だがこの「神の礼拝」」という大前提を見失うならば、単なる教条主義、形式主義に陥ってしまう。
今日の場面で、弟子たちは空腹だった。空腹は命の危機である。神の被造物としての人間の命が脅かされていること。それが当該箇所で問題にされている。それでも律法は「安息日に何もしてはならない」と言っているのかどうか、その究極の律法解釈が迫られているのだ。
「善きサマリア人の譬え」で、主イエスが示したのは、「隣人愛」であった。「神への愛」「隣人への愛」この二つは不可分なものである。つまり、ファリサイ派の安息日理解は「教条主義・形式主義的」な律法解釈であったのに対し、イエスの安息日理解は「神への愛、隣人への愛」であった。
感染症禍にある我々は、利己的な生き方であってはならない。自分の事ばかりを優先する生き方から、他者を愛し、他者と共に自己を生かす生き方、すなわち「利他的生き方」になる必要がある。SDGsが叫ばれて久しい昨今であるが、なかなか人は自分の利を捨てることが出来ない。だが、自己の利だけを優先して生きる人や、そのような共同体は滅びるのみであろう。今我々に問われているのは、全ての形状主義を離れて、「神への愛と隣人への愛」を優先する積極的志向にある。
2021.9.12 の週報掲載の説教
2021.9.12 の週報掲載の説教
<2020年4月5日の説教から>
ルカによる福音書5章33節~39節
『新しい葡萄酒は、新しい革袋に』
牧師 三輪地塩
現在「宗教的断食」をすることは殆どない。体調維持のためのデトックス効果を期待して「断食道場」に通う人がいるぐらいである。或いは安保闘争や学生紛争でハンガーストライキをした若かりしの時分を懐かしむ人はいるかもしれない。
イエスの時代のファリサイ派たちは、宗教行為として断食をしていた。断食にも種類があり、モーセの律法に定められた「年に一度の7月10日の断食」、「エルサレム滅亡とバビロン捕囚を記念した断食(4、5、7、10月)。ファリサイ派が独自に行なう月曜と木曜の断食である。イエスの考えとは真逆なファリサイ派たちはこのような「厳格な律法遵守主義」を貫く者たちであった。
古来、「宗教」と「断食」は切っても切り離せない関係にあった。仏教、ヒンドゥー教、イスラム教など世界の宗教にも断食はある。だが断食は「行為それ自体」が崇高なものになってしまい、断食の「意味」を失った「形骸化された形式主義」に陥る危険も伴う。それはイエスが最も危惧し、嫌っていた態度でもあった。35節には「しかし花婿が奪い取られる時が来る。その時には彼らは、断食する事になる」とある。イエスは断食自体を否定しているわけでなく、形式的な信仰であってはならない、と言うのである。
断食は、本来苦しく厳しい行為である。だが、その行為が、厳しいものであるがゆえに「個人的な努力」「我慢強さ」に注目が集まりがちだ。そこから派生し、「断食している姿を人々に見せつける優越感」「信仰深さのアピール」にも繋がってしまう。
イザヤ書58章4節以下にこう書かれている。「断食しながらいさかいを起こし、神に反逆する。それが断食の姿であろうか。本当の断食とは、悪の束縛を断ち、軛をほどいて、虐げられた人を解放し、軛をことごとく折ること。飢えた人に必要な食事を与え、さまよう貧しい人を招きいれ、裸の人には衣を着せかけ、同胞に助けを惜しまない事である」。預言者イザヤ(第3イザヤ)を通して明確に語られている。我々は、真の信仰とは何であり、何をすることが神の御心であるのかが問われている。あなた自身の栄光ではなく「神の栄光」なのだ。
<2020年4月5日の説教から>
ルカによる福音書5章33節~39節
『新しい葡萄酒は、新しい革袋に』
牧師 三輪地塩
現在「宗教的断食」をすることは殆どない。体調維持のためのデトックス効果を期待して「断食道場」に通う人がいるぐらいである。或いは安保闘争や学生紛争でハンガーストライキをした若かりしの時分を懐かしむ人はいるかもしれない。
イエスの時代のファリサイ派たちは、宗教行為として断食をしていた。断食にも種類があり、モーセの律法に定められた「年に一度の7月10日の断食」、「エルサレム滅亡とバビロン捕囚を記念した断食(4、5、7、10月)。ファリサイ派が独自に行なう月曜と木曜の断食である。イエスの考えとは真逆なファリサイ派たちはこのような「厳格な律法遵守主義」を貫く者たちであった。
古来、「宗教」と「断食」は切っても切り離せない関係にあった。仏教、ヒンドゥー教、イスラム教など世界の宗教にも断食はある。だが断食は「行為それ自体」が崇高なものになってしまい、断食の「意味」を失った「形骸化された形式主義」に陥る危険も伴う。それはイエスが最も危惧し、嫌っていた態度でもあった。35節には「しかし花婿が奪い取られる時が来る。その時には彼らは、断食する事になる」とある。イエスは断食自体を否定しているわけでなく、形式的な信仰であってはならない、と言うのである。
断食は、本来苦しく厳しい行為である。だが、その行為が、厳しいものであるがゆえに「個人的な努力」「我慢強さ」に注目が集まりがちだ。そこから派生し、「断食している姿を人々に見せつける優越感」「信仰深さのアピール」にも繋がってしまう。
イザヤ書58章4節以下にこう書かれている。「断食しながらいさかいを起こし、神に反逆する。それが断食の姿であろうか。本当の断食とは、悪の束縛を断ち、軛をほどいて、虐げられた人を解放し、軛をことごとく折ること。飢えた人に必要な食事を与え、さまよう貧しい人を招きいれ、裸の人には衣を着せかけ、同胞に助けを惜しまない事である」。預言者イザヤ(第3イザヤ)を通して明確に語られている。我々は、真の信仰とは何であり、何をすることが神の御心であるのかが問われている。あなた自身の栄光ではなく「神の栄光」なのだ。
2021.9.5 の週報掲載の説教
2021.9.5 の週報掲載の説教
<2020年3月29日の説教から>
ルカによる福音書5章27節~32節
『罪人を招く』
牧師 三輪地塩
当時のユダヤ人を神経質にさせる強制的・屈辱的な支払いこそがローマ帝国への納税であった。レビは、税の取り立てを生業としている徴税人であった。税の徴収は、各家庭を歩き回って集めるのではなく、通行税の取り立てであると考えられている。「収税所に座っていた」とあるように、彼は通行人が来るのを座って待っており、そこで余計以上に上乗せした税を取り立てていたのだった。南にエジプト、北に小アジア、ギリシャ、ローマに続くのユダヤ地方は、地政学的に交通の要衝であったため、周辺諸地域の人たちが移動する場合は必ずこのふとどきな「税関」を通らなければならなかった。この嫌われ者の徴税人は、ユダヤ教でも同胞を裏切る「罪人」と定められていた。
このレビが、イエスの求めに応じて立ち上がり、イエスに従う者になった。彼は「何もかも捨てて」従ったのであるが、それは単に財産を放棄したということではなく、自分が歩んでいたそれまでの人生、或いは価値観を清算し、これまでの自分を一旦リセットした、という意味ではないだろうか。「物」「物質」は、使う人の哲学や、倫理、モラルが反映される。財産も同じである。財産が沢山あろうとなかろうと、それは人間の価値を決めるものではない。だが、それを「どのように使うのか」によって、人の生き方は変わってくる。この時のレビは、イエスが共にいなかった時と比べて雲泥の差を生んだと思われる。
なぜレビは、27節のイエスの一言ですぐに従うことができたのだろうか。彼の葛藤について福音書記者は述べていないため、憶測する以外にない。だが、このようなレビの姿は、我々の身近な社会でも起こり得る。例えば、不法薬物や振り込め詐欺、或いはイジメの加害者などが逮捕されたあと「いつか止めなければならなかったことは分かっていた」「いつも罪の意識に苛まれていた」と吐露することが多い。更に「今捕まって良かった」ということを述べる者もいる。このことは、人間は罪意識を持ちながらも、それを捨てる事が出来ない場合が多いという例証であろう。つまり、ここでイエスが語りかけた「私に従いなさい」という呼び掛けの言葉は、レビにとっては悔い改めを促す後押しでもあった。「いつか止めなければならなかった」罪に気付き、イエスと共に歩むことを選ぶ、信仰告白に導く招きであった。
<2020年3月29日の説教から>
ルカによる福音書5章27節~32節
『罪人を招く』
牧師 三輪地塩
当時のユダヤ人を神経質にさせる強制的・屈辱的な支払いこそがローマ帝国への納税であった。レビは、税の取り立てを生業としている徴税人であった。税の徴収は、各家庭を歩き回って集めるのではなく、通行税の取り立てであると考えられている。「収税所に座っていた」とあるように、彼は通行人が来るのを座って待っており、そこで余計以上に上乗せした税を取り立てていたのだった。南にエジプト、北に小アジア、ギリシャ、ローマに続くのユダヤ地方は、地政学的に交通の要衝であったため、周辺諸地域の人たちが移動する場合は必ずこのふとどきな「税関」を通らなければならなかった。この嫌われ者の徴税人は、ユダヤ教でも同胞を裏切る「罪人」と定められていた。
このレビが、イエスの求めに応じて立ち上がり、イエスに従う者になった。彼は「何もかも捨てて」従ったのであるが、それは単に財産を放棄したということではなく、自分が歩んでいたそれまでの人生、或いは価値観を清算し、これまでの自分を一旦リセットした、という意味ではないだろうか。「物」「物質」は、使う人の哲学や、倫理、モラルが反映される。財産も同じである。財産が沢山あろうとなかろうと、それは人間の価値を決めるものではない。だが、それを「どのように使うのか」によって、人の生き方は変わってくる。この時のレビは、イエスが共にいなかった時と比べて雲泥の差を生んだと思われる。
なぜレビは、27節のイエスの一言ですぐに従うことができたのだろうか。彼の葛藤について福音書記者は述べていないため、憶測する以外にない。だが、このようなレビの姿は、我々の身近な社会でも起こり得る。例えば、不法薬物や振り込め詐欺、或いはイジメの加害者などが逮捕されたあと「いつか止めなければならなかったことは分かっていた」「いつも罪の意識に苛まれていた」と吐露することが多い。更に「今捕まって良かった」ということを述べる者もいる。このことは、人間は罪意識を持ちながらも、それを捨てる事が出来ない場合が多いという例証であろう。つまり、ここでイエスが語りかけた「私に従いなさい」という呼び掛けの言葉は、レビにとっては悔い改めを促す後押しでもあった。「いつか止めなければならなかった」罪に気付き、イエスと共に歩むことを選ぶ、信仰告白に導く招きであった。
2021.8.29 の週報掲載の説教
2021.8.29 の週報掲載の説教
<2020年3月22日の説教から>
ルカによる福音書5章17節~26節
『あなたの罪は赦された』
牧師 三輪地塩
中風の人の癒しの話し。この男は脳内出血、脳血管障害などにより、半身不随、四肢の麻痺があったと考えられる。彼は歩く事ができず、不自由な生活を強いられていた。この男には、友人たちが沢山いたらしく、彼を心配して集まってきた。
古代ユダヤ社会では、病気は「罪」との関係で考えられていたため、この中風の患者は罪に対する罰が下っていると考えられていた。彼は肩身の狭い生活を強いられ、治ることのない半身不随と一生付き合っていかなければならないとい絶望と共に過ごしていた。
だが彼の友人たちは諦めることなく、中風の男を床に乗せて担ぎ、イエスのいるところまで連れて行ったのだった。「床に乗せて」と表現されているが、「床」は、貧しい者たちが使う「ゴザ」「敷物」のような、簡素で低価格な庶民の道具のことを示している。この中風の男性は、病気だけでなく、経済的にも苦しみ、貧しく質素な暮らしをしていたのではないかと考えられる。
彼らは、マルコ福音書2章によると「4人の男性」と書かれているが、ここでは人数は分からない。重要な事は、彼らの執念とも言えるやり方でイエスの下につり降ろしたことにある。いくら仲の良い友人であっても、屋根を剥がして上からイエスと対面させるとは、大胆すぎるにもほどがある。今では「器物損壊」と「不法侵入」で現行犯逮捕だ。家の主人にとっては迷惑千万のこの行為。しかしイエスはこれを高く評価した。
イエスは、「その人たちの信仰をみて、人よ、あなたの罪は赦された」と宣言する。このイエスの好意的な言葉は、突拍子もないことをしでかした男たちの行動を、「素晴らしい信仰」と認めた言葉であった。友人たちのこの行動の素晴らしさは、中風患者が治りたいか否かによって行動しているのではなく、この患者にとって最も必要なことを自己判断で行っていることにある。
<2020年3月22日の説教から>
ルカによる福音書5章17節~26節
『あなたの罪は赦された』
牧師 三輪地塩
中風の人の癒しの話し。この男は脳内出血、脳血管障害などにより、半身不随、四肢の麻痺があったと考えられる。彼は歩く事ができず、不自由な生活を強いられていた。この男には、友人たちが沢山いたらしく、彼を心配して集まってきた。
古代ユダヤ社会では、病気は「罪」との関係で考えられていたため、この中風の患者は罪に対する罰が下っていると考えられていた。彼は肩身の狭い生活を強いられ、治ることのない半身不随と一生付き合っていかなければならないとい絶望と共に過ごしていた。
だが彼の友人たちは諦めることなく、中風の男を床に乗せて担ぎ、イエスのいるところまで連れて行ったのだった。「床に乗せて」と表現されているが、「床」は、貧しい者たちが使う「ゴザ」「敷物」のような、簡素で低価格な庶民の道具のことを示している。この中風の男性は、病気だけでなく、経済的にも苦しみ、貧しく質素な暮らしをしていたのではないかと考えられる。
彼らは、マルコ福音書2章によると「4人の男性」と書かれているが、ここでは人数は分からない。重要な事は、彼らの執念とも言えるやり方でイエスの下につり降ろしたことにある。いくら仲の良い友人であっても、屋根を剥がして上からイエスと対面させるとは、大胆すぎるにもほどがある。今では「器物損壊」と「不法侵入」で現行犯逮捕だ。家の主人にとっては迷惑千万のこの行為。しかしイエスはこれを高く評価した。
イエスは、「その人たちの信仰をみて、人よ、あなたの罪は赦された」と宣言する。このイエスの好意的な言葉は、突拍子もないことをしでかした男たちの行動を、「素晴らしい信仰」と認めた言葉であった。友人たちのこの行動の素晴らしさは、中風患者が治りたいか否かによって行動しているのではなく、この患者にとって最も必要なことを自己判断で行っていることにある。
2021.8.22 の週報掲載の説教
2021.8.22 の週報掲載の説教
<2020年3月15日の説教から>
ルカによる福音書5章12節~16節
『主よ、御心ならば』
牧師 三輪地塩
レビ記14章には皮膚感染症についての細かなルールが載っている。治癒の判断は祭司が行なった。病が認定されると、完全にキレイになるまで社会から隔離されて生活しなければならなかった。隔離は「差別」を生ぜしめる。イエスの前に現れた彼は、重い皮膚病にかかっており、隔離状態であった。彼がイエスの前にいたのは、律法違反を犯してまでもイエスに近づきたかったからであろう。彼はイエスの噂を聞きつけ、この方なら病を癒し、状況を変えてくれるに違いない、という確信を得て律法違反を犯したのであった。一世一代の大博打である。
祭司たちが、病気の完治を判断するのには理由があった。病気は罪の結果とされてきたからである。病気は本人や先祖の罪が原因とされ、宗教的に置き換えられ理解されていた。だがイエスは、律法の縛りを超え、神の言葉の「祝福性」を読み取った。神の独り子イエス・キリストは、神の言葉(律法)を真の解釈によって、正しく読み直し、皮膚病の男に、「神の救い」を、語ったのであった。
「よろしい清くなれ」は、病気の概念を一変させる言葉である。祭司たちは、病人の体を見て、清いか清くないかを判断したが、イエスは、清くする方(神)の権威の下で、「なれ」と宣言する。祭司が「批評家」であるなら、イエスは「治癒の主体者」である。イエスに病気の批評と判断は必要ない。神としての権威の下で「治れ」と言えばそれが人を生かす言葉となる。
この男は、「イエスを見てひれ伏し、主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と願った。これを聞いて、イエスは手を差し伸べ、その人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われた後、男はたちまち癒やされたのだった。
「主よ、御心ならば」という言葉には、どことなく「頼りなさ」を感じる。彼が受けた差別の数々は、彼自身を弱くされたのかもしれない。或いは、一向に治らず打ちひしがれた思い、不甲斐なさ、恐怖などが込められているのかもしれない。だが恐る恐るのこの言葉に対し、イエスは「よろしい、清くなれ」という。「よろしい」は彼の全てを受容し、肯定する言葉である。「清くなれ」は、イエスが全てを癒す主体者であることの宣言である。我々は、イエスの宣言の下で生きる、治癒を受ける客体となる。
<2020年3月15日の説教から>
ルカによる福音書5章12節~16節
『主よ、御心ならば』
牧師 三輪地塩
レビ記14章には皮膚感染症についての細かなルールが載っている。治癒の判断は祭司が行なった。病が認定されると、完全にキレイになるまで社会から隔離されて生活しなければならなかった。隔離は「差別」を生ぜしめる。イエスの前に現れた彼は、重い皮膚病にかかっており、隔離状態であった。彼がイエスの前にいたのは、律法違反を犯してまでもイエスに近づきたかったからであろう。彼はイエスの噂を聞きつけ、この方なら病を癒し、状況を変えてくれるに違いない、という確信を得て律法違反を犯したのであった。一世一代の大博打である。
祭司たちが、病気の完治を判断するのには理由があった。病気は罪の結果とされてきたからである。病気は本人や先祖の罪が原因とされ、宗教的に置き換えられ理解されていた。だがイエスは、律法の縛りを超え、神の言葉の「祝福性」を読み取った。神の独り子イエス・キリストは、神の言葉(律法)を真の解釈によって、正しく読み直し、皮膚病の男に、「神の救い」を、語ったのであった。
「よろしい清くなれ」は、病気の概念を一変させる言葉である。祭司たちは、病人の体を見て、清いか清くないかを判断したが、イエスは、清くする方(神)の権威の下で、「なれ」と宣言する。祭司が「批評家」であるなら、イエスは「治癒の主体者」である。イエスに病気の批評と判断は必要ない。神としての権威の下で「治れ」と言えばそれが人を生かす言葉となる。
この男は、「イエスを見てひれ伏し、主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と願った。これを聞いて、イエスは手を差し伸べ、その人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われた後、男はたちまち癒やされたのだった。
「主よ、御心ならば」という言葉には、どことなく「頼りなさ」を感じる。彼が受けた差別の数々は、彼自身を弱くされたのかもしれない。或いは、一向に治らず打ちひしがれた思い、不甲斐なさ、恐怖などが込められているのかもしれない。だが恐る恐るのこの言葉に対し、イエスは「よろしい、清くなれ」という。「よろしい」は彼の全てを受容し、肯定する言葉である。「清くなれ」は、イエスが全てを癒す主体者であることの宣言である。我々は、イエスの宣言の下で生きる、治癒を受ける客体となる。
