2018.05.13の説教から

513日の礼拝説教から>
『食卓の下の子犬』
         マルコによる福音書724節~30
                             牧師 三輪地塩
 ェニキア人は、イスラエル人たちと敵対的な関係が1000年以上も続いていたため、ユダヤ人にとって「神の民の外側にいる人々」であり、良い印象を持たれていなかったと言える。
このような文化背景が前提にあるにもかかわらず、このフェニキア人の女性(母親)は、自分の娘を救ってくれるようイエスに懇願したのである。だがイエスは「子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない」と拒否したのである。この冷淡とも受け取れるイエスの返答についてはさておき、この母親はなおも食い下がるのである。
 この母親は、愛する娘が悪霊に取り憑かれていることで大変な苦しみを受けていた。現代で言うところの、精神疾患の状態と思われる娘を心配し、心を痛め、なんとか元通りに治って欲しいと願っているのであった。イエスの足下にひれ伏すこの姿は、娘を思う切実な願いであり、その辛さが胸に突き刺さる。母親は娘に様々な治療を施した事だろう。民間療法、魔術、薬なども試した事であろう。時間を掛け、費用を掛け、全てをこの娘に注ぎ、娘に寄り添い、治療に当たったが、一向に良くならなかった。
イエスから、けんもほろろに断られた母親であったが、それでも食い下がり、「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます」と懇願した。この諦めない姿。一生懸命粘るこのひたむきな姿が、主イエスの考えを変えさせた。「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった」。この言葉と同時に、娘は癒やされたと聖書は記している。
 普通なら諦めてしまいそうなこの場面で、彼女は「謙虚に」「粘り強く」主に求めるのである。ここに神との向き合い方のヒントがある。我々は、神とどう向き合うのか。厚かましいまでも神に願い続ける。しかし常に謙虚に、である。

2018.05.06の説教から

 
56日の礼拝説教から>
『昔の人の言い伝えに従って歩まず』
         マルコによる福音書71節~23
                             牧師 三輪地塩
 の箇所を読む上で二点の事が前提となる。まず「コルバン」とは神殿に献げる「穀物」の事を言う。もう一点は、当時のイスラエルには「両親の扶養義務」があったことである。この義務はモーセの律法にも出てくる。だがこの扶養義務からズルをして逃れたいと思う者たちも少なくなかったという。どのようなズルかと言うと、「これは神への捧げ物、コルバンとして捧げるので、親を扶養する事は出来ません。神様に捧げる為に、親には捧げられません」と言って扶養義務を逃れるのである。現代社会でもこのようなグレーゾーンを渡って法律の穴を逃れようとする「輩」が後を絶たないが、2000年前の人間も全く同じであった。
 このような背景によって、9節以下の言葉を考えると、よく理解出来る。十戒の第4戒に「あなたの父母を敬え」とあるが、ここから理解されるのは「両親の扶養義務」である。更に広い意味で捉えると、健常者や経済的裕福な者たちは、弱者に対する相互扶助や支援の責任・義務を負う、というのが当時のルールであった。だが、「神へのコルバン・神に捧げるから」という理由をつけて、神の名をみだりに唱えつつ、実際は、自分の懐に財産をしまい込んでいる人も少なくなかったのである。イエスが告発し、暴露しているのは、このような、ズルをした者たちが、「神の名をみだりに使っている事」であった。
 イエスは群衆を集め、15節で言う。「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである」。これは、多少解釈が難しいが、律法の食物規定を考えても、神の作り給う被造物に汚れはないことと、汚れは「我々の心」が作り出すものだ、と述べている。すなわち汚れは「罪」の問題に由来する。「心」とは何か。それは、「人間の正しさによってではなく、神の正しさによって、正しく神に向かう思い」。それこそが、我々の言うところの「心」の正しいあり方だとイエスは言うのである

2018.04.28の説教から

 
                 429日の礼拝説教から>                      
               『湖の上を歩く』
         マルコによる福音書645節~56節 
 
 湖の上を歩く姿を見た弟子たちは、「幽霊だ!」と叫び恐れた。
英訳聖書(RSV)では「Ghost」と訳している。
 ギリシャ語の原文では「幽霊・妖怪・亡霊」などを意味する
「ファンタスマ」という語が使われている。その他「現れ」「現象」
という意味も持つ。この箇所で、弟子たちが「ファンタスマ」だと
思って見たものは、彼らの心の中にある「妄想」「恐怖」の現れ、現象
である。弟子たちが怯えたのは、古代オリエント世界に広がる、伝説や
神話のようなものであったと思われる。
「レビヤタン」「ティアマト」などもその一つである。 
 ここで弟子たちが見た「ファンタスマ」は、人間の理解を超えた恐怖、
自分の想像を絶する何らかの力に対する恐怖を示してる。
同時に、その姿の正体が主イエスであったという事実は、我々信仰者に、
イエス・キリストこそが救いの神である、と言っているのである。
 この箇所は5000人のパンの出来事の後に記されている。これは明らか
に、出エジプト記の「マナの奇跡」を想起させる。大勢の空腹を満たす
のは、真の神以外にはおられないという信仰告白である。更に、
「荒れ狂う波の真ん中を進んで来るイエスの姿」は、出エジプト後に葦
の海を割ってその真ん中を通った「モーセの海割りの出来事」を想起さ
せようとしている。
 この時弟子たちに対するイエスの言葉は「安心しなさい。わたしだ。
恐れることはない」であったが、「わたしだ」と言うのは「エゴー・
エイミ」[]I am[]である。これは出エジプト3章で、モーセに
対して神が顕現された時の宣言の言葉「私はあってあるもの」「私はあ
る、わたしはあるという者だ」と類似する。つまり、弟子たちにご自分
を「エゴー・エイミ」と言い表した主イエスこそが、自然のすべてを収
め給う真の神。そして、世にうごめき、世にはびこる、すべての恐怖を
乗り越えさせ給う真の神」と宣言されているのである。その主イエスが、
yle="font-family:serif;">我々に「恐れることはない」と声を掛けている。
 

2018.04.12 説教より

422日の礼拝説教から>
『五千人の給食』
マルコによる福音書630節~44
                 牧師 三輪地塩
 5つのパンと2匹の魚について、原文でパンは「アルトス」という語が使われている。これは小さなパンを示す。そこに2匹の魚があったとしても焼け石に水であり、何の足しにもならない食料であった。しかしこの箇所が語るのは、その小さな食料が、5000人の成人男性たちの空腹を満たした、という驚異的な出来事であった。「パンを食べた人は、男が5000人であった」と締め括られている通り、男性に限って言えば5000人であった、という事であり、女性を含めるともっと数字は大きくなると思われる。

 マタイ福音書1413節の平行箇所と比べてみると、小さな言葉の違いでありながら、正反対の事を語っている部分がある。マタイ福音書1416節では、空腹の人々を見て、イエスは言う。「あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい」。これに対して弟子たちは「ここにはパン五つと魚二匹しかありません。」と応答している。英訳では「We have only fiveloaves」。つまり「five loves」(5つのパン)「only」(しかない)と訳しているのである。新共同訳も「5つのパンと2匹の魚しかありません」というように、「しか~ない」の言葉を使って邦訳している。

 だがこれに対してマルコ638節では、「パンは幾つあるのか。見て来なさい」というイエスの言葉に対し、弟子たちは持っている食料を確認した上で「五つあります。それに魚が二匹です」と結果報告をするのである。ここには、5つしかない」「2匹しかない」という消極的ものではなく、まるで「ある」ものを(例えそれが少なかったとしても)喜んでさえいるように感じられる応答となっている。喜んでいなかったとしても、少なくとも「事実確認」以上でもそれ以下でもない、「正しい現状把握」を行っている。
我々人間は、多いとか少ないなどと言いながら、その量に対して、評価をする。善悪の評価、幸不幸の評価、喜びと悲しみという評価を、その「量」「数」によって行うのだ。我々が主の言葉を信じ、それに従って「~しかない」から「~もある」と喜びの認識に変わる事が出来れば、本当に5つのパンと2匹の魚で5千人を養うことが出来るかもしれない。

2018.09.30の説教から

<先週の説教から>
               ヨシュア記146節~15
                       神学生 鈴木美津子
 
 カレブは「今日わたしは八十五歳ですが、今なお健やかです。モーセの使い
をしたあのころも今も変わりなく、戦争でも、日常の務めでもする力があります。どうか主があの時約束してくださったこの山地をわたしにください。」(10-12)と、ヨシュアに向かって実に大胆に、土地の分配を求めました。
 カレブはかつてモーセの時代に、神の約束の地カナンを偵察した12人の斥候の1人でした。(民数記12-13)
 当時、カレブは40歳でした。彼は神の約束の地カナンは「乳と蜜の流れる地」であったと、見たままを報告しました。しかし彼と共に行った斥候たちは困難さだけに目を奪われて、悪い報告をして「民の心をくじいた」と、カレブは語ります。しかし「私は私の神、主に従い通しました」と、カレブは自身を語ります。ここで大切なことは、彼がどのように従い通したかです。約束の地カナンで目にした光景は、カレブもヨシュアも、他の10人の斥候も同じだったはずでした。しかし、「信仰の目」には、同じには映らなかったのです。カレブには確信がありました。彼の目は神がこれまでイスラエルにしてくださった善き業を思い起こし、だからこそ叶えられる神の約束してくださる将来が確実に映ったのです。神がイスラエルに約束された地なのだから、既に自分たちに与えられているのだ、という強い確信です。神への信頼はカレブのように「ただ信じる」という驚くほど、単純で純粋無垢な信仰なのです。
 このことは、現在の私たちも同じです。「主イエスを信じます」という信仰によって、既に私たちには、神の約束の国、天の国籍が与えられているのです。
 神はモーセを通して「あなたがわたしの神、主に従い通したから、あなたが足を踏み入れた土地は永久にあなたと、あなたの子孫の嗣業の土地になる」(9)と、カレブに約束と誠実を表されました。それによって、それからの45年、彼は守られ、忍耐し、この日に至りました。私たちも確実にその日がきます。主を待ち望み、主の約束を信じ、主に従い通して、主の前に「わたしにください」と言うのです

2018.09.23の説教

  2018年9月23日の説教

<先週の説教から>
                    「主が望まれるもの」
             ルカによる福音書1038節~42

          教師 吉平真理(雲雀ケ丘伝道所)

 まだ会ったこともないイエスさまとその一行を「迎え入れる」決断をしたのは、姉のマルタの方でした。それは食事だけでなく、身の回りの世話をし、自分の家を福音宣教のために提供することに現れていました。マルタは、そのように神の国の福音を伝えるイエスさまと弟子たちを迎え、その働きを支える大切な役割を自ら担ったのです。マルタをこの「もてなし」(ディアコニア)に突き動かしたのは、自分も神の国の到来を知った喜びに根ざした自発性でした。「奉仕」とは、主の教会を建て上げるために賜物を用いて、自発的に感謝をもって主にお仕えすることです。その評価は、どのような時、どのような場面においても、何が一番大切かをご存じの主がなさいます。本当に良い事は、主だけがご存じだからす。

 マルタはせわしく立ち働き、もてなしながら『多くのこと』をあれこれ悩み、思いわずらっていました。イエスさまをお迎えした喜びは「精一杯もてなさなければ」という義務感や責任感に変わり、その負荷が大きくなるにつれ、初めにあった彼女の自発性は失われていきます。「私はやっているのに、何故、あの人は一緒にやらないのか」。いつの間にか自分を「正しい者」の位置に置いて、自分と同じように動かない他者への苛立ちを募らせるす。

 『しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。』「多くのこと」を考えて、思いわずらうマルタに、主は「ただ一つ」のことに思いを向けようとされます。主はマルタを思いやって、「良い」もの、本当に必要とされる「一つ」のことを、教え
てくださるのです。がマルタに望んでおられたことは何でしょうか。

それは、いかなる時も、イエスさまの語られる福音の「恵みに生き、仕える」という「喜び」を失わないで欲しい、ということです。律法を全うしようとする思いに向かうのではなく、神の国の到来による主の恵みを知ることです。自由にされ、喜んで、自発的に生きてほしい。そうなるために必要な「ただ一つ」を教えて下さっているのです。
それが、イエスさまのみ言葉に、期待をもって聞き入ることなのです。