<11月13日の説教から>(合同礼拝) 『基礎を据える』
マタイによる福音書7章24節~27節 牧師 三輪地塩 イエス様はマタイ福音書7章24節以下で「砂の上にではなく、岩の上に家を建てなさい」と言われました。「建築技術」の話をしているのではありません。あなたの人生は、何の上に建っていますか?と質問しているのです。 砂に棒を刺すと簡単に刺さりますが、簡単に倒れてしまいます。その反対に、堅い土には簡単には刺さりません。しかし一度刺さると簡単には倒れないのです。このような譬えを用いてイエス様は言うのです。あなたたちの人生もそれと同じだよ、と。 皆さんにとって「基礎」とは何でしょうか?勉強すること、遊ぶこと、体力、親子・兄弟などの人間関係、色んな方向から色んな答え方が出来ると思います。では、キリスト教信仰にとっての基礎とは何か。それは「御言葉」「聖書」に聞き続けることです。世の中はどんどん新しい物を造り出し、新しい発見や発明を行っています。人間の知恵は本当に素晴らしいなあと感じます。しかしそのような如何なる知恵にも増して、神様から与えられる知恵こそが、何よりも最も大事なことだ。そう信じる事、そしてそのように御言葉に聞き続けることこそが、私たちの基礎になっていくのです。 建物の「基礎」には2つの特徴があります。一つ目は「基礎を作るのは大変な作業である」という事です。しっかりと建てる基礎は、時間が掛かりますし、簡単に据えることはできません。しかし確実にそのかけた時間は、その人を下支えするのです。 二つ目は「基礎は見えない」という事です。基礎は美しさを競うものではなく、これ見よがしに人に自慢して見せるものではありません。いざと言う時にあなたの「心」も「体」も「魂」をも、その全てを、人生の全てを支える、堅い土台です。 イエス・キリストに聞き従う事は、まさにこの「土台」を固めることになります。時として人生には、嵐が吹きますし、地震や津波にも似た状況が起こるでしょう。一瞬で自分の人生がかき消されてしまうようなことも起こるし、あまりにも理不尽で承諾しえない状況にも襲われるかもしれません。しかしその時、キリストという基礎が私たちの内に堅く据えられていることが、全ての困難を乗り越えることの出来る「土台」となるのです。 |
2016年11月6日の説教から
<2016年11月6日の説教から>
『マルコスの右の耳』
ヨハネによる福音書18章1節~14節
牧師 三輪地塩
弟子のペテロは手にした剣を抜き、大祭司の手下マルコスに切りかかり、
右の耳を切り落としたのだった!!なされるがままの弟子たちが、最後の
抵抗とばかりに与えた一撃であった。だがイエスは「剣をさやに納めなさい。
父がお与えになった杯は、飲むべきではないか」と言われ、ペテロの行いを
制止した。
マルコスへの一撃は、弟子たちが軟弱ではないことを見せつけるのに
一役買ったかもしれないが、反対に、弟子たちの単なる自己満足ともなり得る
行為でもあった。
この闇夜で起こった出来事。支配する暗闇は、永遠の滅びである「悪の力」
を象徴的に表している。つまりここでは 使徒ユダ、ローマ兵、ユダヤ人神殿
警備隊がイエスを取り囲む状況であり、あたかも我々を取り巻く世の中が、
永遠の滅びに囲まれているような様を暗示しているかのようでもある。永遠の
滅びに剣で応戦する場合、右耳一つぐらいなら切り落とすことができるかも
しれないが、剣によって永遠の滅びそのものを撃退することは出来ない。
永遠の滅びとは、人間の「罪の力である」。我々を取り囲む「悪の力」である。
これを人間の力で、剣の力では太刀打ちできない。
それに太刀打ちできるのは、キリストの贖いしかない。だからイエスは
「剣をさやに納めなさい。父がお与えになった杯は、飲むべきではないか」と
言われる。この暗闇に象徴される我々を、暗闇の中から、神の栄光の輝きの
下に引きずり出されるのがイエスキリストである。キリストは、剣によって
ではなく自らの命を捨てることによって、絶望の暗闇を希望の光へと変えて
下さった。
光は闇の存在を明らかにする。闇はそれ自体闇である事をやめないが、
光に照らされる時、闇は闇であることを失うのである。
<2016年10月30日の説教から>『イエスの祈り(2)』
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2016年10月23日 Open Churchの説教から
| <2016年10月23日Open Churchの説教から> 『ヨシヤ王』 (列王記下22章1節~20節 牧師 三輪地塩) ユダ王国歴代の王様20人のうち12人は神様から離れ、残りの8人だけが神様の御心に適った王だと言われています。ヨシヤ王のおじいちゃん「マナセ王」は悪い王で、神様の言いつけを守らず、偶像礼拝などを行なったりして、神様に背を向けていた人でした。しかしそれだけではありません。このマナセの次、息子のアモン王についても聖書は次のように言います。「アモンは父マナセが行ったように、主の目に悪とされることを行った。父の歩んだ道をそのまま歩み、父が仕えた偶像に彼も仕え、その前にひれ伏し、先祖の神、主を捨て、主の道を歩まなかった」。 更にこのアモン王、あまりに悪すぎたため、「彼の家臣たちは謀反を起こし、この王を宮殿で殺害した」のでした。王様として悪すぎたために、部下たちから愛想を尽かされて、殺されてしまったのです。 この流れから言うと、マナセの孫でありアモンの息子であるヨシヤは、普通なら悪い息子(孫)になってもおかしくないところです。ですが、彼は「31年間王様」の地位にあり、その治世の18年の時(彼が26歳の時)に、宗教改革を開始します。それは乱れ混乱していた神様への信仰を元通りにする、という改革でした。ヨシヤ王は、父や祖父たちが行なった罪を、そのまま受け継ぐのではなく、間違った事をしっかりと正し、親族、家族という、血縁の関係から離れ、神様との繋がりを第一に考え、礼拝の改革、信仰の見直し、生活の改善、と行ったのです。私たちは「負の連鎖」を断ち切らなければなりません。あらゆるレイシズム、憎悪、間違った考えなどは、現代社会にも厳然と存在します。私たちは、このような「負の連鎖」を断ち切る勇気ある者たちでありたいのです。 |
2015年11月15日の説教から ヨハネによる福音書8章12節‐20節
<11月15日の説教から>
『わたしは世の光である』
ヨハネによる福音書8章12節~20節
牧師 三輪地塩
『光の降誕祭』という説教集の中に、エドゥアルト・トゥルンアイゼンというドイツの神学者が礼拝で語った説教が残されている。ヨハネ福音書1章5節の説教として以下のように語れている。
「言葉の内に命があった。命は人間を照らす光であった」。とこで極めて明らかになるのはこのことです。イエス・キリストとは何か。それは神ご自身が「私どもと共にいて下さること」、神のいのちそのものである、と。わたくしどもがそのことを疑わずにおれなくなっても、―わたくしどもが、わたくしどもの人生や考えの中で、神は本当に戸口を出て下さったのであろうかと疑わずにおれなくなっても― そこでこそ、この飼い葉おけの幼子、十字架にかけられたこの方は、わたくしどもに言われます。わたくしどもが疑おうが疑うまいが、ご自分は、確かに戸口を出て下さったのであると。この方のうちにこそ、いのちがあるのです!!」
この説教は1937年に語られた。1934年にナチスがドイツの政権を掌握してから数年が経ち、世の中が徐々に怪しい雰囲気に包まれて来たことを国民が感じ出した時期である。このような怪しげな社会情勢の中「本当に神がこの世を支配なさっているのか?」と疑いたくなる緊迫した世の只中でトゥルンアイゼンは言う。「我々の側が疑おうと疑うまいと“キリストは光であり続ける”」と。
このような状況は、現代社会(とりわけ日本)を取り囲むモヤモヤした雰囲気に何らかの類似性を感じずにはおれない。このような中にあっても「キリストは光である」と告白し、そう信じて生きている中に、我々の真の希望があるのだろう。暗闇の中でこそ光が より強く輝くように、我々はこの光なるキリストに従って歩みたいものである。
クリスマス時期を我々はどう過ごせば良いだろうか。それは「御言葉に聞き」「真の希望が何である(誰である)のかを見つめ」「暗闇の中で輝く“光”の存在に信頼する」ことである。アドベントとは、まさにこの光を待ち望む時期である。我々は、自らの心を静めて、闇に輝く光に目を向けたい。
ヨハネによる福音書7章53節~8章11節 「あなたを罪に定めない」
<11月1日の説教から>
「あなたを罪に定めない」(ヨハネによる福音書7章53節~8章11節)
牧師 三輪地塩
この箇所は大変有名である。イエスの愛と赦しに満ちている温かく優しい箇所と言えるだろう。我々がこの箇所を読むときに心の中に湧き起こるのは、「痛快感」や「スッキリした思い」ではなかろうか。あるいは「あの憎き律法学者やファリサイ派をやっつけたという爽快感」であろう。トンチで将軍様をやり込めた「一休さん」のようでさえある。
だがよく考えてみると、この女性は「無実の罪」によって不法にも連行されてきたのではない。彼女は、当時としては赦されるべきではない「姦淫の罪」という逃げ隠れ出来ない罪を犯し、言い訳の出来ない現行犯で捕まっているのである。
つまりこの箇所は、イエス・キリストが「罪を犯した人の“罪が無くなった”」と言っているのではない。赦されざる罪を犯した者がその後どうなったかを示し、我々は一つの問いを与えられるのである。この箇所が「愛にあふれる箇所である」と我々が感じるとき、我々の目線はどこにあるのだろうか。これを「勧善懲悪の痛快な話」として読む場合、我々の心は「イエスの目線」からこれを読んでいる事になる。あるいは、守られて赦された姦淫の女性の視点に立っていることになるだろう。しかし本来、聖書が我々に投げかけるのは、「あなたも赦されている」ということよりも、「あなたは誰も罪に定めることなどが出来ない」ということである。つまり、他者の罪は非常に厳しく告発するけれども、自分の罪は見過ごしがちな我々に内包される「都合の良い自己愛」に対し、「そのあなたの罪を悔い改めよ」ということが重要ではなかろうか。律法学者を糾弾し、ファリサイ派をギャフンと言われた痛快感に浸る我々は「被害者」としてこれを読んでいる。しかし本来読むべきは逆なのだ。我々は「加害者である」という視点からこれを読むとき「愛に満ちた箇所」というよりも、我々の罪そのものを糾弾される 「心に痛く突き刺さる御言葉」となるのである。
主イエスは「この女に石を投げなさい」と言っているように、決してして律法を破って良いなどと言ってはいない。しかし「あなたも罪を犯していることに気づきなさい」と、内省的に自己吟味することへ促されている言葉である。「ああ イタタタ・・」と、心に痛みを感じながら読んでもらいたい箇所である。
